TALK
南アフリカのLGBT事情〜歴史から生まれた多様性な国〜
私はWe Think (Shibuya).の代表を務める佐藤と申します。
この自分らしく生きるプロジェクトの発起人のひとりです。
今回、コロナ感染が起きる前に仕事で南アフリカに行ったものの、コロナ感染防止のため出国することができず・・・しかし、怪我の功名で南アフリカのLGBTの事情を知ることができました。
南アのLGBT事情を書くにあたり、少しだけこの国を紹介します。アフリカ大陸最南端に位置する南アは、大航海時代から数えると500年以上、そしてヨーロッパからの入植は360年以上ともなります。この国の歴史と文化、そこに多種多様な人種と民族、さらに言語が織りなす極めて稀な風土は、世界の人々を魅了してやみません。
【南アフリカ】と聞いてすぐに頭に浮かぶのは、2010年に行われたサッカー・ワールドカップ南アフリカ大会での日本代表予選突破、そして2019年ラグビー・ワールドカップ日本大会、南アフリカ代表優勝といったイメージではないでしょうか?
その南アの象徴と言っても過言ではない、テーブル・マウンテンの裾野と海に守られる街ケープ・タウン。2019年には『世界でもっとも訪れたい街』に選ばれたほどです。その魅力は、世界遺産に登録されている「ケープ植物区保護地域群」の息をのむような大自然に囲まれながらも、都市の魅力溢れるエンターテイメントが堪能できることにちがいありません。
また2018年に中東以南・アフリカ大陸で最優秀リゾートホテルに選ばれた「One and only Luxury Hotel」(日本でも有名な『NOBU』が店舗を構える)をはじめ、数々の高級ホテルが立ち並び、南アでもっとも人気の観光スポットと称される「V&Aウォーター・フロント」には、トレンド・ファッションや人気雑貨などはもちろんのこと、骨董品や絵画、映画館までも兼ね備えたエリアとなっています。ちなみに、南アにも春夏秋冬の節がしっかりとあるため、その魅力に飽きることはないでしょう。
かような魅力溢れる南ア、そしてケープ・タウンは、世界の国々から老若男女、多種多様な方々が訪れる、楽園かのように思える……。
しかし同国には、「アパルトヘイト(注1)」という避けて通ることのできない歴史があります。
と同時に、このような歴史的葛藤があったからこそ、南アは1993年初の民主的憲法の公布に向けた暫定憲法の中で「性的指向を理由とする不当な差別の禁止する」と明記し、そのままこの文言を憲法に「性的指向を理由とする不当な差別の禁止する」と盛り込んだ世界初なのです。(それ以外の人種差別や人権のほども様々な形で憲法に盛り込んでいる)。このことからもわかるように、南アは人種や人権を常に尊重し、さらには人々の指向に関しても寛容です。つまり、国民性としても、国としても、非常に感度が高く、素晴らしい国と言えるでしょう。
注1;アパルトヘイト[apartheid]。アフリカーンス語で「分離、隔離」。南アの白人と非白人の行動規範を規定した人種隔離政策。1948年に立法、1991年に撤廃。
現在、南アではLGBTだから、黒人だから、白人だから、カラード(先住民やアジア系移民などからなる混血)だからといった差別的な発言を聞くこともなければ、差別的待遇などを見聞きしたこともありません。
※注釈:何かにつけて人々は対立構造をつくるのが好きだし、普遍的な偏見と表現すべきか、それとも意識と表現すべきわからないが、先入観がないとは言わない。
前置きが長くなりましたが、南アにおけるLGBT事情の話を、歴史を交えながら進めていきましょう。
1968年10月8日; 同国初のゲイ集会を開催(Public meeting)
1982年4月; the Gay and Lesbian Association of South Africa 設立(通称:GASA)
※中流階級の白人ゲイ男性が集う場所を提供
※アパルトヘイト反対を声明しなかったため、ILGAが1987年に追放、以後解散
1988年4月9日; the Gay and Lesbian Organization of the Witwatersrand (GLOW)設立
※ヨハネスブルグ市都市圏近郊のタウンシップで、黒人ゲイとレズビアンによって
※アパルトヘイト政策下、白人以外が声を上げたという非常に意味深く初の組織
1988年;同地区で、初のドラッグ・クィーン・コンテストを開催
1990年10月13日;南ア初のプライド・マーチ(Pride march。アフリカ大陸でも初)
“We’re here, we’re queer, we’re everywhere!” はあまりにも有名です。
※アパルトヘイトからの解放と平等を目指す政党のアフリカ民族会議(ANC)と共闘
「アパルトヘイト撤廃への戦いから、同性愛者への差別、偏見や嫌悪をなくす戦いを切り離すことなどできない」ネビール・ホート氏(南アフリカの作家)。
反アパルトヘイトの運気が高まった時代と時を同じくして、LGBT当事者たちの戦いも始まり、上述したように、世界で初めて「性的指向を理由とする不当な差別の禁止」を憲法に明記した国となった。
今日となっては、過去の葛藤や歴史をネットなどでしか見ることはできないですが、LGBT当事者に直接話を聞くことができました。(A氏[仮]。1962年、ヨハネスブルク市都市圏生まれ、南ア国籍。ゲイ)。
A氏 :「日本にはいくつの公用語があるのですか?」
私 :「日本語ひとつです」
A氏:「世界を見ても、日本みたいな国がほとんどでしょうね」
私 :「そうかと」
A氏:「ご存知かもしれませんが、ここ南アの公用語は11言語。歴史を遡れば、現在のケープ・タウン近郊の先住民族はコイ族とサン族だけ。500年以上も前にヨーロッパ圏の人々や文化が入り、それをきっかけにインドやマレーシアをはじめ、東洋の人も文化も流入してきた。そして人種も交わりも起こった。さらに19世紀に金やダイヤモンド鉱山が発掘されると、アフリカ近隣諸国から出稼ぎ労働者が急増。そういった歴史がつくり上げてきた南アフリカという風土。これからも推測していただけるように、非常に多種多様な人種と文化がこの国をつくり上げてきたのです」
私 :「本当に稀な国だと思います」
A氏 :「いまだに人種格差や部族格差、また政治的混乱があるとはいえ、1994年以降、私たちが性的指向を理由とする不当な差別を受けることもなくなりましたし、そこに固執するような風潮も現在の南アフリカにはない。言語の壁はあるにせよ。相手への理解というか、肌や目の色、生まれたところを気にしていたら、南アフリカは成り立たない。それを歴史が物語っている」
私 :「……沈黙」
そしてA氏は、こう続けた。
「普遍的な偏見や差別は無くならない。それも多様性のひとつ、と割り切る覚悟も必要でしょう。そうすれば争いではなく、議論が生まれる。だから話す。そうやって自分を、相手を知っていけば心の中が覗ける訳ではないけど、趣味嗜好(指向)、生まれたところ、人種や言語が違っても、お互いに理解できるはず」
「日本人と握手するのは初めて」などと、優しく陽気な雰囲気で僕を受け入れてくれ、心地よい、非常に有意義な時間でした。
そして、南アの現在を友人のジョニー(1984年、プレトリア郊外ポロクワネ出身、南ア国籍。ゲイ)が教えてくれました。
A氏を紹介してくれたのも、このジョニーである。クリエイティブな料理を作ることで非常に有名なジョニーは、食や文化の東西問わず様々なものにチャレンジするシェフ。(彼の家に招待された際に、自家製キムチをワインの肴に出され興奮したことは今も忘れられない)。
ジョニー曰く、
「区別、差別、そして隔離政策。南アには人権を無視してきた過去がある。だから1980年代、そして1990年も然り、21世紀に入っても様々な活動を行った結果、今の南アフリカがある」。
1998年に性的指向を理由にした雇用差別禁止法(the Employment Equity Act)が可決され、2000年にはこの延長から『平等の推進と不当差別防止法(Promotion of Equality and Prevention of Unfair Discrimination Act。公衆・私有を含む一般的なすべてのサービス;公共機関、公共施設、レストランや小売・量販店、さらに教育機関やホテルなどのサービスを提供する場での行動規範とモラルに基づいた行動提案)』へ、その範囲が広がった。
ジョニー:「物心ついた時には、男の人に興味があって、それが普通なのかそうじゃないのか、悩んでいた高校生くらいから20になるくらいかな。たてて続けにさっき話したように、セクシャル・オリエンテーションへの理解の広がりと同じ頃に、自分のアイデンティティに気づかされたし、そういう仲間が周りで支えてくれたことも大きかったかな」
「そして2006年かな【同性でも結婚できる法案が可決された】というニュースを聴いた時は、率直に嬉しいと思ったけど、本当に許されるのか……。結婚って何?などと、いろんなことを考えさせられ、母親に自分のことや結婚の意味などを相談したんだ」
※1990年代、LGBTの活動は非常に盛んだったが、マンデラ氏の引退以降2006年前後まで苦難の連続であった
私 :「ジョニーはゲイだけど、LGBTのすべての人が結婚できるってこと?」
ジョニー:「法律的には、同性婚が認められているから、誰とでも結婚できるんじゃない」
そして彼の言葉や話から、南アフリカでは、人種差別と戦った歴史があるから、個人の人権や個性を尊重する文化があることを、思い出した。と同時に、ジョニーは「からかわれたことはあるけど、それが理由で否定された記憶はないかな。ただ南アにはステレオタイプの方も多いし、宗教や民族文化も多種多様だから、時と場所、そして相手を選ぶよね。そもそも自分が『僕ゲイです』とか言わないし」と僕をからかうように笑った。
ジョニー:「別に結婚にこだわっているLGBT?、ゲイ・カップル?っているのかな?僕の周りではかなり少数派のような気がする。というのも法律でパートナー・シップが認められているし、しっかりと育てる想いがあれば養子をお願いすることもできる」と教えてくれた。
※the Children’s Act, 2005「partners in a permanent domestic life-partnership(両親は南ア国内において永続的パートナーたる関係にあること)」と明記されている
ジョニー曰く、南アフリカのLGBT人口は正直不明とのこと。その理由は、移民(不法入国・就労者)があまりにも多く実数の把握が困難だという。また彼のアドバイスをもとに色々と調べてみた結果、あくまで想像の域を脱しないが、人口の5〜7%(約290万人)くらいになるだろう。
アパルトヘイトという人種差別と戦い、人権の大切さを手にした南アだからこそ、セクシャル・マイノリティー(セクシャル・オリエンテーション)と呼ばれる人たちの人権も同じように尊重し、法整備をしてきた。だからこそ今日、レインボー・カントリーと称し、そしてそう表現されているに違いない。
多種多様な人種と民族(マイノリティーな民族・部族となれば、人口比の1%となることも)、言語、LGBTも然り、人々と文化、さらには歴史が南アフリカという国を彩っている。
おわりに
LGBTの友人たちと話す機会も多かったし、彼らの力を借りて、南アのLGBT事情や歴史、そして「多くのなぜ」を知ることができたことは、非常に有意義でした。
現在、日本でも『LGBTs』という言葉が何かと話題に、行政や企業などでも、相互理解を進める取り組みが行われ始めているものの、まだまだ全国的ではありません。
しかし、LGBTs当事者に向けた制度をつくっても「本当に必要な制度なのかどうか?」という疑問を感じる場合があります。
もちろん日本人の国民性、文化や歴史といった様々な土壌も関係していると思うので、何が正しいかはひとりひとりの考えが尊重されるべき。と思うのと同時に、仕事でも人間関係でも、状況や相手を理解することなくしては、抜本的な解決にはならない。A氏の言葉にあったように「議論が生まれる。だから話す」、そうやってお互いに理解することができれば、偏見も区別という名の差別も、逆差別もなくなるのではないか・・・。
南アフリカという国を見て、友達と話し、日本に足りないのは議論と建設的な取り組みだと感じた。と同時に、日本の中で「自分らしく生きるプロジェクト」で、自分は何ができるのか?
多種多様な人々が行き交うケープ・タウン。その海沿いで、幻想的な夕焼けを眺めながら、早く日本でやらなければいけないと、気持ちがますます高ぶった。
PROFILE
寄稿者:佐藤圭史
2019年からWe Think (Shibuya).の代表を務める。
https://wethinkshibuya.jp/
学生時代アメリカですごし、過去・現在とLGBT当事者たちと話す機会が非常に多かったことから【自分らしく生きるプロジェクト】を立ち上げた。また仕事の都合、各国の文化に触れることも多数。